はじめに


本書は、故・大阪大学名誉教授足立孝先生の生誕百年に因み、先生に所縁のある研究者が、「建築計画学」・「人間と建築」に関する先生の思索や研究業績に鑑みながら、執筆者各自近年の研究成果を論じることとし、「建築計画学」が現代社会の状況において求められる理論的再構築を模索しつつある現在、研究者・大学院生・学部生ら、のみならず建築とまちに関わる全てのみなさまのご議論に、いささかなりとも貢献しようとするものであります。

足立孝先生(1919--1993)は、京都帝国大学工学部建築学科を、在学年限短縮により1941年12月に卒業し、一旦大阪市役所に在籍されましたが1942年2月に召集され、中国大陸転戦の後、敗戦と同時にソビエト連邦の捕虜となり、いわゆる「シベリア抑留」を経て1947年4月1日に復員を果たされました。その後、京都大学の恩師・森田慶一の依頼(と仄聞しますが、ご指示かも?)により、1950年1月20日に大阪大学工学部構築工学科講師に着任されました(本書・付録1参照)。

戦争による5年間の過酷な体験と研究者としてのスタートの遅れは、足立孝先生のその後に大きな影響を与えていると思われます注)。

研究活動の背景として、当時の政治・経済・社会の情勢等を簡単に顧みますと、世界的な冷戦構造を受けて、東側陣営に対する防波堤として位置づけられた日本に対する占領政策が大きく変更され、先生が復員された1947年には、当初の所謂民主化路線は早くも「逆コース」を辿り始めていました。1950年の朝鮮戦争・特需に並行して、翌年のサンフランシスコ講和会議・日米安保条約締結を経て、「55年体制」がスタートし、1956年経済白書には「もはや戦後ではない」と記される時代になっていました。一方、共産主義を国是とするソビエト連邦の存在・中華人民共和国の独立等によって、日本社会全般に社会主義思想・マルクス主義が一定の影響を及ぼしていました。

足立孝先生の復員から大阪大学着任・博士学位取得に至る約10年はこうした激動・激変の時代でもありました。

更に奇しくも、先生が生誕された1919年は、第一次世界大戦終結の翌年であり、日本では都市計画法・市街地建築物法が公布され、欧州ではバウハウスが創立された時であります。建築界に深く関与されたお一人として、何かの因縁を感じざるを得ません。

 

本書は、足立孝先生が担当された大阪大学工学部建築工学科第三講座(建築計画学)−−学生用語で「ダチケン」−−に関係した有志が集い、先生の生誕百周年に当たる今年中の発刊を目指して、昨年末の発案から分担執筆したものであります。

「第一部:発祥」は、足立孝先生の出発点となる初期研究と、それらを取り纏められた博士論文を基に、先生のご研究の内容と意義について一つの考察を試みたものであり、特に、博士論文第一章序説は先生のご研究の基本的な考えが総合的・体系的に叙述されたものであることから、現在では入手し難いその〈復刻〉を試み、付録として転載致しました。

「第二部:展開」は、足立孝先生の影響を直接的・間接的に受けている「ダチケンゼミ」のメンバーが、近年それぞれに取り組んでいる建築計画研究の最先端の課題と成果を述べたものであります。

 

最後になりましたが、先生のご令息・足立啓和歌山大学名誉教授には、足立孝先生の肖像写真をご貸与いただき、また、上述した博士論文「第一章序説」〈復刻〉の転載をご許可下さいました。ご厚情に対して深くお礼申し上げます。

 

先生が日本の建築計画学研究に果たされた先駆的な研究業績、ならびに、学生指導に当たられた学恩を省みる時、到底、本書がお応え出来るものではないことに忸怩としつつ、本書をご霊前に捧げたく思います。

 

2019年9月30日

執筆者を代表して 舟橋國男

 

 

 

注)研究室のゼミナールでは、屡々、「人生には知らなくて良いことがある。」、「露助(ロスケ)は好かんが、日本はアメリカの妾(めかけ)になったから言いなりになるしかない。」、「5年の遅れにより非常に焦った。」等と発言されていました。